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2008年02月28日

五業について


今度のテストに出そうです。
今後も役立つ知識だから、よく覚えておかなきゃ


意業は心の働いてゆくすがたであるから、他にむかってこれを表示することはできないが、身業と語業は具体的な表現となって現われる。この具体的に表現されて働く身業を身表業(しんひょうごう、kaaya-vijJapti-karman)といい、語業を語表業 (vaag-vijJapti-karman) という。

このように具体的に表面に現われた身語の二業は、刹那的なものでなく、余勢を残すから、身語二業の表業が残す余勢で、後に果をひく原因となるようなもの、それを身無表業(しんむひょうごう、kaaya-avijJapti-karman)、語無表業 (vaag-avijJapti-karman) という。このようにして、初めの意業と身語二業の表無表の四業とで五業説を形成する。

いま、これらの業の分類を通して、仏教の業説の意図するところを考える時、そこには仏教の基本的な考えかたが示されている。すなわち人間の生活が厳然たる因果応報という姿に営まれること、したがって人間の行為は現在刹那に終結してしまうものでなく、常に因縁果と相続してゆくものであり、すべてが全く自己責任の中に果たされねばならないことである。釈迦が

人間は生まれによって尊いのでも賤しいのでもない。その人の行為によって尊くも賤しくもなる
というのも、この業説のうえに立っていわれたのである。さらに、このような人間の行為についての因果論的立場は、単に現実の身体的行動や言語活動の上にいわれるものでなく、その根本を人間の精神に位置づけるのが仏教であり、道徳的には結果論でなく、動機論の立場をとるものであることを示している。

ところで、この厳格な因果関係について、仏教は三時業ということを説いて、因果の連鎖を三世、あるいはそれ以上の世代にまで及ぼし、業の永遠性を説いている点に注意しなければならない。このことは因が結果となることは必ず条件(縁)によるものであることを示すとともに、因であること自体、実は結果である現実に立ってこそ因といわれることを示している。より具体的には果となった時、因が因として働きを完了するのであるから、果とならなければ因とはいえないはずである。たとえば、たとえ種子を大地におろしたとしても、条件次第で種子は敗種となってしまう。この点、因果応報は明らかであっても、その応報は因の働きをなさしめる条件次第であるといわねぱならない。仏教はこのように縁を強調することによって、人間の現実を生きる姿勢を正すべきことを教えるものである。良因、良縁のととのった時に良果がえられるので、良因のみで良縁がないならば、良因もその働きを完了することができなく、ついに敗種となる。といっても悪因はたとい条件がよくても、良果とはならないのはいうまでもないが、悪因も良因とともに条件次第で、それを敗種たらしめることが可能であることは注意すべきである。


引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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